関ヶ原の戦いを早期決着させた毛利輝元の「弱腰」
史記から読む徳川家康㊸
この時、家康は桃配山(ももくばりやま/岐阜県関ケ原町)に布陣していた(『板坂卜斉覚書』)。直政や正則らの軍勢よりははるか後方にいたわけだが、これは戦場の視界を著しく阻害していた濃霧を嫌ったため、という説がある。前線で戦っている隊は、手探り状態での戦闘を余儀なくされていたようだ。
戦いの行く末の鍵を握っていたとされる三成方の小早川秀秋も同様だったらしい。松尾山(岐阜県関ケ原町)に布陣していた秀秋は、先鋒だった正則隊の鬨(とき)の声を合図に下山して家康方に寝返り、三成方に攻撃を仕掛ける手はずとなっていたが、何の反応もしなかった。正則は苛立ったが、家臣たちに「濃霧のために福島隊の動きが確認できないのではないか」となだめられたという逸話がある(『戸田左門覚書』)。
このように、秀秋が動かないことに焦燥したのは、実は三成方だけでなく、家康側も同様だったようで、家康は「事が手はず通り進まないのは戦場の習い」と苦々しく吐き捨てたという(『黒田家譜』)。
なお、家康が、逡巡する秀秋の陣所に鉄砲を撃ち、決断を急がせた(『井伊家慶長記』『天元実記』)とするエピソードは創作の世界でよく描かれる。これは「問鉄砲」と呼ばれるが、現在は虚構とする見方でほぼ一致している。
しかし、松尾山の麓で自軍に向けた射撃音が聞こえ、小早川隊を騒然とさせたことはあったらしい。この時、秀秋の命を受けて調査のために下山した家臣は徳川軍の兵と遭遇し、誤射であるとの説明を受けたという話が伝わっている(『備前老人物語』)。もしかしたら「問鉄砲」は、この時の話が時代とともに誇張されて伝わったものかもしれない。
ともあれ、霧が晴れて視界が良好になったと思われる正午頃、秀秋が松尾山を駆け下り、大谷吉継(おおたによしつぐ)隊への攻撃を開始した(『戸田左門覚書』『惟新公御自記』『時慶卿記』)。
事前に秀秋の裏切りを警戒していたといわれる吉継は迎撃に奮戦したものの、家康方の軍勢からも攻撃を受けたため、衆寡敵せず、やむなく自害した(『太田和泉守記』『慶長年中卜斉記』)。